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金胎寺

いわれ

◎金胎寺の歴史

 護国山金胎寺は今から約755年前の文応元年(1260)頃、高野山大楽院信顕阿闍梨が北陸巡業の折、越中に滞在し、当地に金剛界・胎蔵界の両曼荼羅を安置し、加茂社の神宮寺として草創されました。

 本堂の天井中央には、周囲に菊華紋をあしらった、墨絵の竜眼図が描かれています。

 この寺は北陸で一番最初に前田利家の兄である前田安勝公により西国三十三観音に習い越中一国三十三観音(※)の十五番札所(本尊秘仏千手千眼観音菩薩像)に定められた寺でもあります。

 明治11年(1878)に小杉小学校の前身である進成小学校が設けられます。また、山内には近隣随一の良質な水が湧く井戸があり、醸造業者が競って仕込みに使われていました。

秋葉堂

 昔より火難よけの神様として信仰の御神体 秋葉三尺坊大権現を祀った秋葉堂は古には、金胎寺の前にあったとされそのお堂の創建年代は明らかではありませんが、嘉永4年(1851)の金胎寺覚入法師文書にあったことが記されており、また貞享2年(1685)に金胎寺心城法師が書いた文書にも記されており、この時には既にあったことが近年の調査でわかりました。現在は本堂の東側に再建されています。

秋葉三尺坊大権現

 秋葉三尺坊大権現は大日大聖不動明王・観世音菩薩・山の神々を融合した、神仏集合の神仏です。

 その姿は、烏天狗(からすてんぐ)の身体に、大日大聖不動明王の持物である、利剣と羂索を持った白狐の上に立つお姿です。また、白狐の手足には白蛇を巻いており、頭と尾の先には宝珠を載せ、口には五鈷金剛杵を咥えている姿が本来とされ、ここでもまた、神仏一体が表現されています。

 この神仏での祈願・供養などは、内護摩、外護摩、紫燈護摩等の秘密護摩を修法することとされています。

 

〈秋葉三尺坊大権現の三大誓願〉

第一、我を信ずれば、失火と延焼と一切の火難を逃がす。

第二、我を信ずれば、病苦と災難と一切の苦患を救う。

第三、我を信ずれば、生業と心願と一切の満足を与う。

 

(秋葉三尺坊大権現御縁起より)

 古い縁起によると信州にお生まれになった方で、その母が常に厚い観音の御信仰によって聖子を生みたいと専心祈念の折柄、ある夜夢に観世音菩薩が迦楼羅身をご覧になったことで懐胎してご誕生になったそうです。幼少より聡明英知で人は皆驚くばかりでありました。七歳で出家して、成長するにしたがって学徳もすぐれ高僧となられましたが、更に世を救う大力量を得たいと望まれて、越後の長岡蔵王権現の十二坊の第一である三尺坊に篭って、大慈悲心と大勇猛心とを発し、失火延焼の難を逃すことを第一として、十三か条の誓願を立て、千座の護摩を修した後、三十七日間不動三昧の修法をされたそうです。その満願の暁に、護摩壇上の香煙中に迦楼羅身を感見すると、累劫の煩悩が一度に滅尽して、飛行自在の力を成就されたとき、空中より観音経の(遊諸国土脱衆生)の天音が聞こえ、実に懐妊の時、母の夢の吉兆と同じく、自分がまさしく観音の化身なることを自覚されると、何れより来た一頭の白狐に乗って化縁の地を求め、天涯に飛行されました。それより御修法された坊の名にちなんで、三尺坊大権現と尊称するようになりました。こうして諸国に飛行して救済される内、平城天皇の大同四年に神足を遠州秋葉山に留められたのです。何故なら秋葉山は行基菩薩の開基で、ご自作の観世音を祭られた霊場であるためにこの地を慕い、ここを自ら鎮座の道場として秋葉三尺坊大権現と称して世人の信仰をあつめられたのであります。 

〈真言〉

①オン・アロマヤ・テング・スマンキ・ソワカ(天狗呪第一)

②オン・ヒラヒラ・ケン・ヒラケンノウ・ソワカ(天狗呪第二)

短歌

 越中観音札所であり、越中の真言宗、曹洞宗、臨済宗の三十五ヶ所巡礼札所の第十五番であり、御詠歌があります。

短歌

「ほととぎす 御名に数そう声のうちに 有明の月もいずる山の端」

御詠歌

「いにしへも またもまいりて こんたいじ  あふぐこころもすずしかるらん」

法華塔

 金胎寺前には六十六部回国成就の記念石標の法華塔があります。 六十六部回国とは書写した法華経を全国の六十六か所の霊場に一部づつ納める目的で、諸国の社寺を遍歴する行脚僧の事です。

  鎌倉末期に始まり、江戸時代には俗人も行い、男女とも鼠木綿の着物に手甲・甲掛・股引・脚絆も同色のものを用い、死後の冥福を祈るため、鉦を叩き、鈴を振り、あるいは厨子を負い、家ごとに銭を乞い歩きました。

  この石標には「自他平等 正徳四甲午天(1714)三月吉日」「キリーク(梵字)」 奉書写供養大乗妙典一石一字日本回国成就也 即身成仏「願主 戸破村一泉謹書」と刻まれています。

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