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金胎寺の歴史

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 護国山 金胎寺は「貞享二年書上」にみる仏教諸宗寺院の創設年代によれば歴史は古く、今から約755年前の文応元年(1260)頃、高野山大楽院信顕阿闍梨が北陸巡国の折、越中に滞在し、当地に金剛界・胎蔵界の両曼荼羅を安置し、加茂社の神宮寺として草創したとあります。その後、寺が大破しましたが、高岡総持寺の前住職が兼帯を許され、慶長3年(1598)に再建されました。

 その本堂、庫裏(住居)等は享和年間(1801~1804)に焼失しました。旦那の山田重左衛門が施入を以って、前口一二間半奥行き七間の本堂、庫裏を加茂社の杉を伐採して再建しました。 本堂の天井中央には、周囲に菊華紋をあしらった、墨絵の竜眼図が描かれ、行基作の千手観音・不動尊・毘沙門天(現在は所在不明)の三体があります。

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秋 葉 堂

金胎寺の境内の東には昔より火災消除・心願成就の神仏として秋葉三尺坊大権現様が祀られた秋葉堂があります。この秋葉堂はいにしえより金胎寺の前にあったとされ、そのお堂の創建年代は明らかではありませんが、嘉永四年(1851)の金胎寺覚入法師文書にあったことが記されています。また貞享二年(1685)に金胎寺心城法師が書いた文書にも記され平成五年3月二十八日、秋葉堂は戸破の周辺八つの町内会や企業の方々のご支援によって再建されました。秋葉三尺坊大権現様は静岡県遠州秋葉山修験道場、秋葉神社の神々の山岳信仰と共に、徳川家康の庇護のもと、伊勢神宮・出雲大社より人気を博し全国にその広がりを見せました。秋葉三尺坊大権現様は、大日大聖不動明王・観世音菩薩・山の神々を融合した神仏習合の神仏であります。

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越中一国三十三観音

十五番札所

 

宮永正運(1732~1803)著の『越の下草』によれば、天正年間(1500年のおわりに)、加賀初代藩主前田利家の兄である前田安勝公、観世音菩薩に対する信仰が厚い方で、西国三十三観音に慣らい、北陸で初めて越中一国三十三観音というご朱印地を制定しました。金胎寺は十五番札所(秘仏千手千眼観世音菩薩)に定められています。三十三観音霊場はその後発展し、種々の金沢の礼状が出来ていった。

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短 歌


 越中観音札所であり、越中の真言宗、曹洞宗、臨済宗の三十五ヶ所巡礼札所の第十五番であり、御詠歌があります。

短歌
ほとととぎす

御名に数そう声のうちに

有明の月もいずる山の端


御詠歌

いにしへも

またもまいりて

こんたいじ

あふぐこころもすずしかるらん

 

三大誓願
 

第一、我を信ずれば、失火と延焼と一切の火難を逃す。
第二、我を信ずれば、苦病と災難と一切の苦患を救う。
第三、我を信ずれば、生業と心願と一切の満足を与う。
真言は「オン ヒラヒラ ケンヒラ ケンノウ ソワカ」

 

(秋葉三尺坊大権現御縁起より)


 古い縁起によると信州にお生まれになった方で、その母が常に厚い観音の御信仰によって聖子を生みたいと専心祈念の折柄、ある夜夢に観世音菩薩が迦婁羅身(観音三十三身の内)をご覧になったことで懐胎してご誕生になったそうです。幼少より聡明英知で人は皆驚くばかりでありました。七歳で出家して、成長するにしたがって学徳もすぐれ高僧となられましたが、更に世を救う大力量を得たいと望まれて、越後の長岡蔵王権現の十二坊の第一である三尺坊に篭って、大慈悲心と大勇猛心とを発し、失火延焼の難を逃すことを第一として、十三か条の誓願を立て、一日に千座の護摩をたいて、三十七日間不動三昧の修法をされたそうです。その満願の暁に、護摩壇上の香煙中に迦婁羅身を感見すると、累劫の煩悩が一度に滅儘して、飛行自在の力を成就されたとき、空中より観音経の(遊諸国土脱衆生)の天音が聞こえ、実に懐妊の時、母の夢の吉兆と同じく、自分がまさしく観音の化身なることを自覚されると、どこからか来た一頭の白狐に乗って化縁の地を求め、天涯に飛行されました。それより御修法された坊の名にちなんで、三尺坊大権現と尊称するようになりました。こうして諸国に飛行して救済される内、平城天皇の大同四年に神足を遠州秋葉山に留められたのです。そのため秋葉山はその以前より行基菩薩の開基で、ご自作の観世音を祭られた霊場であるためにこの地を慕い、ここを自ら鎮座の道場として秋葉三尺坊大権現と称して世人の信仰をあつめられたのであります。 

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